ヨーコ・フジワラのヨガ哲学の講義

生きていれば、楽しいことや嬉しいことばかりではなく、

どうして私が…

と思うような辛い局面に出会うことがあります。その苦しみや辛さは一体どうして起こるのか、と考えたことはありませんか?

こんにちは、ヨガジェネレーションのべーです。

今日はヨーコ・フジワラ先生のRYT200の10回目。いよいよ折り返しに入りつつある、トレーニングの哲学の時間をレポートさせて頂きます!

ヨガスートラは持ち寄り式!面白い哲学の勉強スタイル

ヨーコ・フジワラ先生のヨガ哲学講座での一コマ

ヨガスートラは本だけを読んでいても、中々理解にしにくい部分が多く、日本語訳も本によってバラバラです。また、教えてくれる先生や流派によっても様々な解釈があります。

ヨーコ先生の哲学は、皆が色々なヨガスートラの本を持ち寄って勉強するスタイル。全ての本の種類の章を朗読したあとに解説していくので、その違いを楽しむことができます。

見られる者<プラクリティ>は見る者<プルシャ>のためのみ存在する

パタンジャリのヨガスートラ
スワミ・サッチダーナンダによる、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の解説書。

冒頭でお話した、人間の苦しみや悲しみ。これはなぜ起こるのか。一度は考えたことがあるはずです。

「私が何かしたからなのか」「日頃の行いが悪いからなのか」

自分で自分を責める前に知ってほしいと思います。そもそも大前提として、

私たちは、『学びのために』『経験するために』生まれてきてるの。『なんで私はこんなに考え過ぎちゃうんだろう…』って思うときあるじゃない?それって、まさに『考えるために』生まれてきてるってことなのよ

とヨーコ先生。

私の手元にあるヨガスートラには、第2章20節に「見られる者は見る者のためのみ存在する」と書かれています。私たちは自分の身体や心が自分だと思っていますが、そうではありません。本来の自分とはプルシャ(見る者)。私たちの身体や心はプラクリティ(見られる者)。私たちの身体や心は魂に見られるために、経験するために存在しているのです。

世の中の成り立ちや、プルシャとプラクリティのお話はこちらから

つい勘違いして、体や心、何なら言葉や痛み、全ては、「私」が経験しているものと思い、苦しみの中心にいるのが自分かのように思ってしまいますが、そうではないということですね。

私たちは色眼鏡をかけて世の中を見ている

色眼鏡

その前の節で、ヨーコ先生がこんな風にお話をしてくれました。

私たちは、色眼鏡をつけて物事を見ている

例えば、「身長が高いね」と言われることを、皆さんはどう思いますか?私の身長は167㎝。小さい頃から、スポーツをしていたので、身長が高いことを良いことのように言われて育ってきたので、もちろん「身長が高いね」と言われれば、「嬉しく」感じます。

しかし、女性の中にはそうではない人も多く、中には身長が高いことを気にして、猫背になってしまう人もいるほど。そんな人にとって、身長の高さは「苦しみ」となります。

何が言いたいのか、というと、本当に目の前に起こっているのは苦しみなのか、ということ。

あなたの目の前にかかっているフィルターが、色眼鏡が、苦しみだと見せているだけなのかもしれないのです。

私として考えるのではなく、客観的に物事をみる

ヨーコ・フジワラがRYT200でヨガ哲学を教えている

人間の私が、『なんで私がこんな思いをしなきゃいけないんだろう…』って思うときあるじゃない?それは、人間のヨーコちゃんが考えるからなのね。人間の後ろにいる魂は、ヨーコちゃんの身体に入って、いろんな経験をするために生まれてきたのよ。だから、魂さんは、良い勉強になってるの。わかる?

つまり、私として主観的に見るのではなく、物事は一歩後ろから客観的に見なければいけない、というのが、この日、ヨーコ先生が教えてくれたこと。

勿論、苦しみや悲しみの渦中にいるとその渦に飲み込まれてしまいまそうになります。でも、それが過ぎ去ったあとに、こういった勉強をしてみると、腑に落ちることがたくさんあるのではないでしょうか。

ヨーコ先生のヨガ哲学の時間は、ヨーコ先生の言葉で、例えをいっぱい入れてお話してくれます。受講生の皆さんも、今一度自分が歩んできた人生を振り返る時間になっている模様。

ヨガ哲学の時間は長くなると眠くなってしまうお話も多い(笑)なので、ヨーコ先生の哲学の授業は、毎回1時間。しかし、毎回プログラムに組み込まれています。

私たちはその日1日だけでも、色々な経験をしますよね。トレーニングの1日の最後に、考えを巡らせることのできる時間となるので、哲学が余計に面白く感じるのかもしれません。