美しすぎる太陽礼拝を初めて目の前で見たときは、鳥肌が立った。
一呼吸目でスタジオ内の空気感が変わる瞬間。エーカムで彼女が両腕を天井に挙げたとき「あ、これから始まる」と思うと高揚感で涙が出そうになった。サマスティティヒで立つ姿のカッコよさも、終わったあと、恥ずかしそうに笑う姿も。
この太陽礼拝は、ヨーコ・フジワラの日々の練習と生きざまだ。
初めて見たあの日のことを私は一生忘れないと思う。
怪我をしても練習はやめない
ヨーコさんって本当に淡々とポーズしますよね。すごいポーズしているのに、表情にまったくでない。アシュタンガヨガって怪我のイメージがついてまわると思うのですが、ヨーコさん自身はどうなのでしょう?
これ、インスタグラムにも書いたことがあるんだけど、もちろん、人間は完璧じゃないから、身体も動かしていると、どこかしら負担がかかってくるのね。私も少しだけ骨盤が歪んでいる。そうするとどうしても負担がかかってくる箇所がある。
そこに限らず、いつも少しだけどこか痛みがあるときがあるんだけど、身体って勝手に悪くはならない。使い方が悪くて、同じことをずっと繰り返したらどんどん悪くなる。ということは使い方を直せばよくなるはずでしょう?
肩を痛めたり、腰を痛めたり色々あるけれど、私は絶対練習をやめないの。
怪我していても?治りが悪くなったりはしないのですか?
むしろ、やり方を直して練習していると1週間ですぐに治ったりする。腰を痛めたときも「何で痛めたんだろう?」って考えると、バンダが抜けてたりするのね。じゃあ、バンダを抜けないようにプラクティスするにはどうしたらいいんだろうって考える。
続けているとある日「あ、内ももの内旋のここが抜けてたんだ!」や「腰骨のここの使い方が違ったんだ」という発見があると同時にそれで身体が治るんだよね。
正しい身体の使い方を知る。プロの身体の使い方
それもヨーコさんの検証結果ですか?
そう!これ、プロの身体の使い方なんだって。野球選手でも、肩を痛めたときにどうするかっていうと、肩が痛くない投げ方を探すらしいのね。肩を休めるって思いがちだけど、悪いのは肩じゃなくて投げ方だって考え方。
でも、身体を無視して「やりたいから」ってやり続けるとよくない。「こっちの方が遠くまで投げられるから」「こっちの方が強く打てるから」っていうエゴでやり続けるとどんどん悪くなっていっちゃう。「強く打てなくてもいいから、正しいやり方でやってごらん」っていうこと。
身体は乗り物。身体が使えなくなってからが本当のプラクティスの始まり
その身体の限界を感じることはありますか?
私自身、そろそろこの身体のピークがくると思ってる。私、今40代だけど、ここらがピークだと思っているのね。
もしかしたら10年後かもしれないし、明日交通事故にあって、今日がピークかもしれない。
だけど、ピークを迎えて、下り坂がきた、そこからが一番のヨガのプラクティスだと思っているのね。人間って、上を目指すときっていくらでも前に進めるんだよね。だけど、下に下がっていくことをどれだけ受け入れられるかがほんとのプラクティスだと思うの。
私は身体をすごく動かせるから、プラクティスに対する執着はすごくある。だけど、この身体が自分だとは思ってないんだよね。車が古くなったら乗り換えるのと同じで、この身体も古くなったら乗り換える。スピリチュアル的に言うとそれだけでしょう?
執着はある。だけどそれでいい
意外でした。ヨーコさんでも執着するんですね。
しますよ(笑)今は「美しい、素晴らしい太陽礼拝をする人」ってタイトルがついているでしょう。でも、いずれ、ぬかされる日ってくると思うのね。 例えば明日交通事故にあったとして、1年くらいは、「あーあの人可愛そうだったよね」って覚えていてくれたとしても、その次の年くらいには忘れられるでしょう?
太陽礼拝に限らず、Purple Yoga(パープルヨガ/ヨーコ先生がレギュラークラスを持っているハワイのスタジオ)でも「ヨーコ、あの子は一番プラクティスができる子」って言われる。それに対しての執着はあるよ。正直に答えると「ヨーコより太陽礼拝うまい子、私見たよ」って言われたらカチンとくるよね(笑)
そういうのはあってあたりまえ。だけど、太陽礼拝できるヨーコは本当の私じゃなくて、私にくっついているものでしょう?太陽礼拝ができようができなかろうがヨーコはヨーコじゃない?
今の段階では私は身体が動く人。アーサナができる人だっていうところがあるんだけど、さっき話した本当のプラクティスが来るって思うと、そういう執着がなくなってくるよね。本当のプラクティスを楽しみにしているから。
いずれ、自分の身体が動かなくなってくる現実に直面したときに、私はマインドやメンタル的にどうやって、ヨガを続けていけるんだろうって思う。本当のヨガのプラクティスに専念できるんだろうな、って。
なんてかっこいいんだろうと思った。
だって、「美しい太陽礼拝」に執着できる人間なんて、世界中探したって、ヨーコ・フジワラだけだから。 「執着していること」を認めず、「していないふり」をすることもできるのに、執着がある事実を事実として、真正面から受け止める姿。
ヨーコ・フジワラに会って初めて、人の弱さを「弱い」という言葉では表現したくないと思った。こんなにも馬鹿正直に純粋に、まっすぐ生きている人の美しさに出会ったことがなかったから。
ヨーコ・フジワラが日本に帰国すると500人以上の人々が全国各地から、ヨーコ・フジワラのヨガを受けようと集まる。 なぜ、こんなにも人を魅了させるのか。その理由は、ヨーコ・フジワラという人そのものの魅力なのだ。織りなすアーサナの数々はそれを表現しているのだと思う。
次回は最終回。ヨーコ・フジワラのプラクティスにおけるメンタル面へのこだわりに触れてみたいと思う。